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つらつらと日常を記しております。 漫画やらの感想とか、お酒の感想とか。たまに時事ネタにつっこむ……かも。
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スパコンの予算が削減されたらしい。
信じられないほど愚かな選択としか言えない。

スパコンの演算速度が世界一を維持、というすばらしいニュースが流れた直後にこれと言うのは、いかがなものか。
マスコミは演算速度を世界で競ってるような言い方しかしないが、当然スパコンの演算速度というのはただのお国自慢というような代物ではない。
何万Da(ダルトン)あるようなタンパク質の挙動だとか、宇宙の創生のシミュレーションだとか、大気変動の予測シミュレーションだとか。そういった莫大な計算に用いるための器具に過ぎない。
もう少し日常に近づけた話にするならば、天気予報の精度を引き上げることもできるだろう(そんなものに用いるとは思えないが、やればカオス理論に接近する程度のものはできるはず)

日本は資源に乏しいから科学技術に頼るしかない。
そのはずなのに、最近の研究に対する政府の力の入れなさ具合はいったいどうしたものか。
市場経済に対して投資をして貿易立国にすると言う明確なビジョンがあり、そのために科学関連の予算を削るというレベルの話ならまた違う議論もできようが、TPP参加には消極的ときたもんだ。貿易に関して力を入れたいわけでもないし、実際大手企業からの国外流出は止まる気配を見せていない。
その上で科学技術に対する予算を削るなんてのは、明確なビジョンもへったくれもない愚策と言わざるをえないだろう。
ただ単に、目先のお金のことしか考えていないということが浮き彫りになっているだけである。

なんのためのスパコンなのかということを真剣に考える必要がある。
科学立国なんぞぬかすわりにこういう予算は平気で削るわ、理科力不足だと叫ぶ割に各学校に実験のための予算はつけないわ。

やってることと言ってることが矛盾している。

予算が減れば、雇う側は人材を雇うことをしなくなる(今いる職員の給料を下げるのは、どんな場所であれ最終手段のはず。基本は新規採用を減らす)。
新しい人材が来なければ、ますます科学技術に携わる人が減ってしまう。
仕分けだかなんだかのパフォーマンスはもう結構なので、政府にはそういった広い視点で物事を議論して欲しい。
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大阪副首都で名称一致。
そんなニュースが昨日あたりに流れた。
石原知事が以前、数100キロ離れた大都市になにができるのか、とぼやいたらしいが、それは逆だ。
数100キロ離れた大都市だからできることだろう。
さまざまな方面で指摘されているが、そもそも「政治の中心が東京、経済の中心も東京」という構図がおかしい。

経済についていまさら東京から他の地域へ、というわけにも行かないのだから、橋下知事の「行政機能を大阪へ」という考えはまったく持って正論である。
機能分散は別に大都市で行う必要はないが、インフラ整備を考えれば大阪以外にはないような気もする。中部国際空港を有効活用して、名古屋でもいいかもしれない。
個人的には皇居は京都に移してしまって、行政も京都でやればいいのに……とは思うが、さすがにインフラ的に苦しいかとも思う。
石原知事や官僚の反発もあるし、実行されるかどうかは不透明だ。

石原知事的には、あくまでも東京を中心にして、有事は大阪に……ということらしいが、それでは意味があるまい。
なんのための首都機能分散だと思っているのか。
というか、ハザードクラスを考えれば経済圏を大阪か福岡に持っていったほうが長期的な安定性を見込めるし、福島の事故後外国の企業が東京をどのように評価しているのかが気にはなる。
危険性を考えれば東京以外でありながら、現状の一極集中のためにそのほかの都市ではやりにくい、というところが本音ではなかろうか。

そのときに鍵を握るのが、リニアかと思われる。
東京-大阪を1時間で結ぶということは、大阪に本拠を置いてもすぐに東京まで駆けつけられるということだ。
石原知事の考えではそれをもって大阪がバックアップを……ということだが、外資系の企業がその状況で東京に拠点を置くのだろうか。
そのときまでに取引市場が大阪にあり、相応の国際空港とインフラがあれば、大阪に置くのが自然のように思われる。
というか、そこまで考えて橋下知事は「大阪副首都」という”名”をとったような気がしてならない。
実際国際空港とインフラ整備を”副首都”の名の下に進めようとしているが、”副首都”の名があるためにそれほど不自然に見えない。
名実の”実”は、すべてが終わった後に勝手に現れてくるのではないか。

リニアが完成した後に経済圏がどう動くのか。
ものすごく楽しみである。
もんじゅの装置引き上げが昨日完了したらしい。
敦賀は割合と近い位置にあるので、気になっていなかったといえば嘘になるから、その結果に関しては素直によかったと思う。
もっとも、もんじゅの場合は装置の引き上げ云々よりも発電系が特殊なほうが気がかりではあるのだけども。

原子力発電に対する風当たりが日増しに強くなっている。
当然といえば当然だが、科学が好きな人間としては残念な気持ちがあるのも確かだ。
もんじゅの発電機構にしたって、科学好きにとっては非情に興味深いものである。
あるのだが、誰もが誰もそれに興味があるわけではないし、放射能に対する妙な知識が氾濫する以上それに対して不安を感じるのも無理はない。

とはいえ。
放射能の危険性はぶっちゃけ科学的にはなんも分かってないし、以前に述べたように子どもは甲状腺に影響を受けやすいというだけで、じゃあここから先は危険です、という指標が存在するわけでもない。
また、原発で働く人の発ガン率が……という議論で危険を煽っているものほど、人数だけで平均とのずれを示さないことが多い。少なくとも私は見たことがない。
ウラン鉱山の子どもが……という記事に、その鉱山のSvが記述されていることはなかった。
情報というのは、そんなものなのだということだろう。

正直、年間数mSv程度ならば、いまの食生活のほうがよっぽど危険だと考えられるのだが、そんなことが報道されている気配なんぞありはしない。
自分たちの今の生活が引き起こしている生活習慣病やがんのリスクと、今騒がれている程度の放射線とどちらが危険なのかなんて一目瞭然である。

放射線被爆は、累積量ではなく短時間にどれだけ受けたかの世界である。
同じ20mSvでも、「一年平均したら20mSv」なのか「今日一日だけで20mSv(後は0と仮定)」なのかでは後者のほうが遥かに危険で、前者についてはほぼ心配ないレベルになる。ただし前者にしたところで、半減期の長い核種になれば蓄積するので危険性は変わってくるし、下手をすればUよりもSrのほうが、人体に対する影響はでかいかもしれない。(UはSrほど吸収されない)
問題は子どもだけども、ここに関しては私も危険性が低いと”断定”はできないと思う。自然放射線との兼ね合いを見れば危険ではないとは思うし、そう判断できると思うけども、細胞分裂速度を考えると懸念が残らないかといえば嘘にはなる。

ともあれ、こういうことを知らずに「放射能は危険」と思い込むほうがよほど危険ではないのか。
いや、量が増えれば危険なのは確かだけども、それを言い出したらキリがない。そもそも、塩だって取りすぎればあっさり脳卒中などの病気を引き起こす。
ガイガーカウンターでうんたらとか、ホットスポットだとか言う前に、放射能と放射線に対する正確な知識を身につけるほうが大切だと思う次第だ。
池田小の事件から8日で10年たったらしい。
あの事件は、今でも鮮明に覚えている。
ちょうど5年生の演習キャンプ的なものから帰ってきて、ただいまの後に見たのが事件の映像だった。

あのころというのは不審者関連のニュースが連日報道されていて、その上日経平均株価が下がっているというのに代表されるように、就職氷河期の最後の付近(今はもっとひどいけども……)、失われた10年という言葉が使われるかどうかというころあい。
景気悪い⇒不審者増加、といったような図式でマスコミが報道していたように思う。
そんな時勢に起こったのがあの事件だった。

池田小の殺傷事件というのは、たぶん日本の犯罪史に永久に刻まれるレベルの事件で。
そこより前に起こっていた事件といえばオウムのサリンだけども、さすがにそれは映像くらいしか覚えていない。
こういう「事件」がおこると、必ずそこに対する不備が指摘される。
殺傷事件のときは小学校の警備が取りざたされた。
用は監視カメラだの校門だのといったやつだ。
話を現代に戻せば、原発事故に対する「認識の甘さ」とか言われてるやつも同類である。

で、そこに対する認識が足りなかったからこの事件が起きたんだ。防げたはずだ。とかにつながってくる。
毎回思うのだが、それは「結果論」だし「無責任」だ。
そもそも「起こるかもしれない」で行動できる人間なんてそうそういない。

信号が黄色に変わって、加速して切り抜ける。
これは警察が見てれば減点は明らかだが「まあいないだろう」という判断で行う人が多い。
もしもつかまれば「運が悪かった」で済ます人が大半のはずだ。

犯罪史、あるいは歴史に残る事故の原因に対して「思慮が足りなかった」で済まされるかといえば、答えはもちろんNOであるし、それを擁護するつもりはない。
問題は、考えるのは専門家の仕事で、私たちには関係ないという姿勢にあると思う。
池田小のときは、先述したように不審者が多いという時勢だった。
学校の防衛システムについて考えないとまずいんじゃない? という意見がちらほら出ていたものの、行動したところはごくわずかだった。
世間の感覚として「まずいんじゃない?」なら、費用的に見たって実行するはずがない。
むしろ専門家が危険性を指摘しても、まあ大丈夫だろう、で済ませてしまうのが我々ではないのか。
危険性に偶然性が伴えば伴うほど、起きないと考えてしまうのが人間ではないのか。

人は失敗から学ぶ。
事件の大きさは、どれだけの規模で人々の意識に刷り込まれるかの尺度でしかない。
事件・事故が起きなければ、そこに対する意識が低下するのが必然で、だからこそどこかで何かがおきるという循環作用が存在する。パラドックスと言ってもいいかもしれない。
事件の規模は関係ない。
事件・事故の起こす「自分への影響」に対して「関係ない」「被害者である」は無責任で無自覚。(ただしこれは防衛上のシステムや意識の話で、実際の被害者に対する弁ではないことを述べておく)
社会を揺るがす事件・事故だからこそ、個人の意識にまで還元して「失敗から学ぶ」を貫く必要があると思う次第だ。
日曜日は無駄に過ごす。と決めているわけではないのだが、結果的にだらだらと時間が過ぎることが多い。
他の日はある程度充実はしているので、日曜日だけは休息を入れるイメージですすめられたらベストなんだと思うが、なかなか難しい。

閑話休題。

資本主義について考えてみる。
最近感じるのは、この資本主義という概念そのものが日本人の気質にあっていないのではないかということだ。
そもそも土台からして、他人を蹴落とすのがこのシステムの概要である。そこから社会保障の概念が生まれたというのは別段驚くべきことでもなく、ゆえにこそ欧米によくあった思想だとつくづく思う。
要するに、他人を平気で蹴落とせる人間が、資本主義の主人公なわけだ。
もう少しオブラートに包むなら、ビジネスにおいて非情になれる人間のためのシステムということになる。
で、そのシステムにどう考えても日本人の気質はあっていない。

今回の震災で外国に賞賛された誠実さは、逆に考えればそのような状況でも他人に気を配ることができるということだ。自分の命が危険にさらされている状況ですら、ということである。
こういった性格で、厳密に資本主義など実行できるはずもない。
実際、東京電力に対して政府が助成をする始末である。そのほかにも、主要な企業に対してはなんらかの処置を行うことも多い。
そのくせ、資本主義の思想――富める者はより富める――を推進する。

正直、失笑すらおこがましい。

私自身は日本人のこの気質そのものは嫌いではないし、むしろ好きである。
だからこそ、日本人だからこそできる「思いやりの資本主義」あるいはまったく新しい思想での舵取りをなぜしないのかと疑問になる。
無論「厳密な資本主義」から外れれば諸外国との競争力で苦戦するし、今起きている産業の空洞化がさらに進むのは確実であるから難しい問題であるのは承知している。
だがこのあたりで、選択をしなければならないのではないか。

このまま貫き通せない資本主義で衰退するか。
あたらしい舵取りで、日本としてのアイデンティティを有する形にするか。

今のままの経済体系にこだわるのであれば、日本人が日本を見限る日も遠くないのではないだろうか。
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ぼーっとしてるのが大好きです。
ただ、考え事するのも好きです。
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